昭和43年4月12日 朝の御理解
中村良一
生神とは、ここに神が生まれるという事であってと、教祖は仰っておられますが。生神とは、神がここに生まれるという事。そすと、その生神が、生れる前の心は、いうなら、死に神と言う事が言える。私どもの、心の中に、生神が生まれなかったら、後に残る心は死神。ですから、死神も生神も同質のものだという事です。同じ心の中に宿るもの。教祖様が、次々と、難儀な事が起こってくる。それを、当時、金神ゆうこうの、その節を信じておられた。今でも、それを信じておる人がありますけれども。その当時というのは、もっと、ひどかった。その、金神様のおさわりで、次々、難儀な事が起こってくると信じておられた。けれども、その、金神様は、まぁ、言うなら、悪神、邪神のように、みんなが言う。これは、人間の、不行き届き。いわゆる、実意丁寧を欠くところから、金神様のお怒りを受けるのだ。だから、実意をさえ尽くしていけば、と言うお考えが、その金神様へ、ひたむきに心を向けられて、そして、知って向かえば命を取り、知らずに向かえば、目を取るというほどしの、新たかな神様なのですから、その神様を、生きた神様に、いわば、生かして下さる神様に、目を与えて下さる事の出来る神様に、命を、また与えて下さる事の神様に、お向きを変えて下されというところに、教祖の実意、信心の、いわゆる、真の限りが付くされる。同じ神様を拝まれておられながら、段々、向きを変えてお出でられましたら、いわゆる、天地金の神という神に変貌しておられる。変わっておられる。してみると、裏と表であり、同じなら、生神も死神も。そんなら、私どもの心にも、同じ事が言えるのである。生神と死神とが、同じ心の中に同居うしておるのである。そこで、教祖の神様が、金神様へ向かわれたように、私共も、私どもの心に、中に、どうぞ、お向きを変えて下され、お向きを変えて下されという信心が、必要だという事が分かる。それを、仏教の言葉でしょうかね。回心と言う。心が回るという。人間の幸せとは、これは、人間だけではないけれど、まぁ、人間ほど、本当に、幸せを願うものはなかろうと思う。沢山ね。牛やら、馬やらは、幸せを願うといった様なことはなかろうと思う。ところが、人間は、もう、みんな幸せを願う。幸せを願わないものはない。その、幸せの道を、教祖の神様は、ご自身がお辿りになり、・・・
最近は、お道の、最近に限らないですけれども、教祖様の打ち立てられたところの、金光教という信心は、いわゆる、教祖の神様の生きられ方、そのものが、信心だと言われております。教祖の神様が、こういう場合、どういう様な、例えば、態度、姿勢を持って、その事に当たられたかという事。教祖の神様も、やっぱり、四十二歳のご大患までは、みんな同じこと。幸せになりたいと思うて、一生懸命働かれた。そして、村で一番と言われるほどに、沢山、田畑を、まぁ大変なことだったろうと思うですね。昔の農家の方が、例えば、一反の田を増やすだけでも。いわゆる、昔、言われた、いわゆる、本当の水飲み百姓というのは、その、なかなか、それより登るという事は出来なかった。そういう仕組みになっておった、世の中全体が。その中に、次々とですね、田畑に御用しにお出でられてから、その、もう非常に働き手であったという事ですね。そして、田も買い、畑も買って、村で、一時は一番というほどあってですね。けども、四十二歳の大患から先になると、その田が、段々、減っておりますですね。いわゆる、四十二歳の大患の時から、教祖の神様の心、いわゆる、回心ですね。心が全然変わられて、変わっておられるですね。それは、どういう事かと言うと、その、人間の幸せというのは、金やら物やら、寺方じゃないという事。ね。まぁ、いうならば、神様の仰せ通りに仕る。神様任せの生活こそが、人間の幸せであるという風に、物の見方、考え方が、全然変わってきておられる。その、ほんなら、神様の仰せ通りに仕ります中には、やっぱり、次々と難儀な事もあっておる。けれども、それを有難いと、こう言う様に、頂けれる心が開けておられる。いわゆる、物の見方が変わってきたんですね。
おくらという娘さんが、生まれられて、病気をなさった時なんかは、二人の住まいに、お子様を亡くしておられますね。やっぱり、医者にも見せ、薬も飲ませなさったんだけれども。おくらが生まれなさってからは、もう神様一心であった。ですから、神様が、もう枕元に、お前が居ったところで、仕方がない。ちょうど、取り入れの忙しい最中でもあったらしい。家内も、川手文次郎、その人も、やはり、外の御用に出ておられます。そして、仕事を終えて帰って見えますと。もうそのお子さんが、冷とうなっておられた。それでその、奥さまが、もうこりゃ、おくらが、もう死んどります。教祖の神様は、そんな筈はない、そんなことはない、と言うて、御神前に出て、御祈念をなさっておられます。その御祈念をさせて頂きながら、または、感じておられる事がですね。こら神様の仰せ通りにして、子供が死んだ。薬も飲まず、医者にもかけず、薬代も要らず、医者の支払うお金も要らず。けれども、信心をしておって、子供が亡くなったというたら、世間では、どういうだろうか。まぁ、大びらやかにせずに、そうめん箱の中にでも入れて、裏の竹藪の中にでもいけようかと思うておられる。そこんところがですね、お金もかからなかったという事を、有難いというのは、その有難いという、その言葉のですね、表現のしようが無かったから、ちょうどここでは、子供が死んだのに、その、金やら物やらの方が大事じゃろうかと言った様に聞こえるんですけれども。神様任せで亡くなったという事に、有難いというものを感じておられる表現だという風に、最近の、教学は、そう教えておりますですね。確かに、やっぱ、そうだと思うですね。結果に於いては、その、おくらという方は、助かっておられます。まぁだ、どっか、背中の方へね、御祈念を終わってから当たられると、温みがあったんですね。それから、また一心におすがりをして、助かっておられます。けどもその、まぁ、御祈念中にですね、亡くなられたものと、こう思われた時の、教祖の神様の考え方なんです。が、これは、回心。心が回っておるもの、心が、いわゆる、回っておる、物の考え方、見方が変わっておるものでなからなければ、考えられない事だという風に説明してありますよね。もう確かに、そうだとこう思いますね。教祖の神様が、そんなに、金が惜しいから、医者にかける金が惜しいから、かけられなかったというのじゃない。神様任せになっておれれるという事が、有難い事になって来ておる。これはもう、一事が万事に、良しに付け悪しきに付け、それである。そして、まぁ、ああいう結構な道が開け、結構なお徳を受けられた訳なんです。そこで、私達がですね、信心させて頂いてから、何を頂くかという事はね、私どもの、心の中にある心の中には、生神と死神とが同居しておる。死神に憑かれた。だから、生神に憑かれる事のために、お互いが信心をするのである。
ある大家のお嬢さんが病気をした。医者が来ても、薬を飲んでも治らない。もう、いよいよ、死を待つばかり。その原因が、どういう事であったかという事を、ある人が聞いた。ところが、爪をつむ、ところが爪が火鉢の中へ飛び込んだ。はぁお嬢さん、あーた、爪が、火の中にくべたら、死ぬると言いますよと言うて、その、女中さんかなんかが言うた。さぁ、それから、病み出したんですよねぇ。そらもう、自分は、爪が火の中へ飛び入ったんだから。よくまぁ、俗に申しますよね。不幸が続くといった様な事を申します。病人が絶えんと言った様な事を言いますね、この辺は。爪をくべちゃならん、まぁ、そういう、それを極端に言った訳です。そこで、そのお嬢さんも、その事が、心筋に病んで、いよいよ、病気になってしもうた。だから、薬でも医者でも治らん。それを聞いたある人が、自分が治してやると言うて、お嬢さんを見舞って。火鉢の前で爪をつむ。爪を火鉢の中にくべると、変な臭いが致します。それで、病人が、ふっとこう、見るともなしに見るとこう、爪を、火鉢の中にくべておる。はぁ、あなたその、爪をくべなさると、死んでしまいますよと言うて、病人が言う。家あたりでは、これは、爪を火鉢の中にくべると縁起が良いち言いますよち言う。そるけん、私は、何時も、爪をつんだら、火鉢の中にくべますと、こう言うた。その娘さんの心が、もう一遍に変わった、という話なんです。回心なんです。もちろん、おかげで、健康になったと。まぁ、馬鹿のような話ですけれども、お互いが、そんなような事で、心気を病んでおる。自分の心の中に、何時もその、死神の方が勢いを増しておる。
私は、北京時代に取引をしておった、木田洋行という食料品屋があった。電話を取ったところが、二千九百二十九番ちいうのに当たった。ちょうど、私が行った時、行ったら、こげな電話が当たったち言うとこじゃった。にくにくと言うわけ。そるきん、私が、ふっと気が付いてから、こらまた、良か番号じゃないですか。ふくふくじゃないですかち言うたら、はぁもう、お父さん、お父さんち、裏に居るお父さんを呼びに行ってから、電話はあーた、あーたが、にくにくと言いよったけれども、あれは、ふくふくという、ふくふくになるですよち。それからまぁ、一家中が喜んでですね。家の電話はふくふくという。北京の木田洋行と言うところの電話は、ふくふくという電話だった。にくにくと考えりゃもう、本当、こげな電話が当たったち言うてから。これなんかは、まぁ、即座にその、回心が出来た訳です。だから、信心で言う、その回心と言うのは、その一言二言じゃなくて、全ての事にです、生神が現れなさるような見方が出来るという事が、お道の信心なんです。生神とは、神がここに生まれるという事であって、本質は、生神も死神も同じだと。死神様がござらなかったら、あーた、ねぇ、五百歳も千歳もまでも生きたらどんこんならん。死神様が居りなさるからこそ、おかげ頂けれるのである。けども、人間は、誰しもが、長生きを願う。誰しもが、幸せを願わないものが無い。だから、幸せになるためには、私どもの心が、回心、物の考え方が変わらなければならない。見方が変わらなければならない。それを、教祖様は、肉眼をおいて心眼を開けとも仰ってる。ところが皆さん、なかなかその、生神が、なかなか生まれてこないですね。そこでその、私共が、肉眼をおいて、心眼を開かせて頂く、その過程として、その道すがらに、どういう信心をさせて頂いたなら良いかという事になるのです。
今の教団で、教祖の神様の生きられ方という事を問題にし、また、その生きられ方を神習わせて頂くのが、お道の信奉者でなからなければならないと。その生きられ方の中に、生きられ方が、いわゆる、金光大神の、いわゆる、金光様、教祖様が書き残しておられる、それに細々と、自分の生きられた、過ごし方というものが、その当時の、まぁいうなら、お百姓言葉で書き残されておる。それが、大変素朴で難しい。そこに教学が必要になってくる。それで、今も、私が申しましたように、こん時に、医者代も払わず、薬代も払わず、死んだのだから、医者にかけたり、薬代をかけたりして死んでも、仕方がないのだけれども。神様の仰せ通りに仕らせて頂いたら、薬代も要らなかった、医者代も要らなかった。本当に、おかげなこととして、それを頂いておられる。それは、金やら、いわゆる、惜しそうじゃないけれども、神様の仰せ通りに仕ったおかげで、金が要らなかった。その、神様の仰せ通りに仕ったという事を、有難いと頂いておられる。それは、ただ、金、物が惜しいから、そうではなくて、そこに教学をすると、そういう事にもなるという事に、そこんところが説明してあります。けれども、本当に実際、私は、そういうふうに思えれるという事は有難いことだと思うですね。やはり、心が向きを変えておらなければ、そういう考え方は出来るこっじゃない。神様が、いらん事を教えなさるもんじゃから、子供が死んでしもうたという風にしか、考えられない。そこから、段々、生神とは、ここに神が生まれるという事であってという様に。もう、生神様が、何時も、正面に出ておられて、全ての事が、有難い、勿体ないでお過ごしになられるようになられた。私共が、一言二言ならね、今も申します様に、その、爪の話じゃないけれど、電話の話じゃないけれども、はぁ、ほんにこりゃ、ほんに考えようじゃ、こら、ふくふくたい。味方じゃ福福だと。こりゃおかげじゃった。はぁ、こげんすりゃ、もう本当に死ぬると思いよったら、本当に、反対に、そうすりゃ縁起がいいと言われりゃ、この人が、事実死んではいない。それを見ただけで、心が変わって、いわゆる、健康になった。皆さんが、ここにお参りをさせて頂いて、御理解を頂かせて貰う。ね。
昨日、東飯塚教会のご信者さんで、善導寺に移転してきたという方が、お参りをしてきた。まぁ、こちらの事を、先生から聞いておった。それで、ある一つの、難儀な問題があって、お願に見えられた。御神米を下げて、御神米入れを、こう出されるから、御神米を入れてから、その御神米の開けたところに、有難い勿体ないと、大久保先生の字で書いてあった。だから、私が、その方に言うんですよ。その事はね、有難い勿体ない事ですよと。御神米入れを、丹念に親先生が書いて下さる。その事も、有難い勿体ない事ですよと。ちょっと、苦しい事のように、困ったことのように見えるけれども、実は、有難い勿体ない事ですよと。私はね、今さっき、御本部から帰って来て、今ここへ着かせて頂いたばっかりですけれども。御本部の帰りにね、こういう事があったんですよというて、私が、お話させて頂いた。皆さんが、お酒を頂いたり、お菓子を頂いたりしておる。私は、頂かれんから、寝てから、みんなが飲んだり、食べたりしよるのを見たり聞いたり、まぁしよる。やはりあの、酒は好きですから、やっぱり頂きたいとも思う。けれどもそれを、目をつむって、金光様とこう、お願させて頂きよると、それを、飲まんで済む、頂かんで済む事が有難い。それで、その事を神様にお礼申させて頂きよりましたら、私の神願に頂くのがね。辛抱と頂いた。それは、心の棒と書いてある。はぁ私は、初めて知った。如何に信心辛抱という事が有難い事かという事が。辛抱さえしておれば、物事、整わん事はないと。四神様は、石橋先生に教えておられる。ほぅ、なるほど、こういう辛抱さえすりゃ、物事、整わん事はない筈だなぁと、私は思うた。
信心する者は、信心には、辛抱する事が、一番大切でございますと、三代金光様は教えておられる。一番大切と仰っておられる。お参りする事、お供えする事、そういう事よりも、もっと一番大切と言うておられる。一番大切でございますと。教祖の神様も、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと仰っておられる。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。私が、寝ながら頂いたのは、辛抱という事がある。しんは心、普通は、辛いという字の下に、抱くという字が書いてありますよね。手辺にこう、包むという字が書いてある。私が頂いたのは、心の棒である。棒というのは、木辺に奉るという字が書いてある。ははぁ、神様へ奉る。心を奉る。私が、いわば、お酒を頂きません、甘い物も頂きません。食べたいけれども、飲みたいけれども、辛抱致しますと。しかし、それが、辛抱しとるだけじゃいけんごたる。なぜって、お供えするのですから、不浄が付いたらいけないでしょうが。辛抱しておる後にですね。辛抱させて頂いておるという事が、有難いと気付かせて頂く時に、神様は、それを受納して下さる、受けて下さる。私は、はぁなるほど、身に徳を受ける修行とはこれだ。神信心には、一番大切と仰るのはこれだ。なるほど、辛抱さえしたら、物事、整わないことはないと仰るのも、これだという事が、昨日、改めて、感じさせて頂ける思いがした。だから、あなたこら、有難い事ですよ、勿体ない事ですよ、と、私の、その御理解を頂かれて、はぁ本当に、ここに来てから、初めて、辛抱の意味が分かったというて、親子で喜ばれた。はぁ、ほんなごと、そげん頂きゃ、有難い勿体ない。だから、あーた方、この御神米入れの、親先生の、ちゃんと書いてある、これを、何時も見てから、何時も、全ての事が有難いことだ、勿体ない事だと分からにゃいけんですよと。もし、それが頂けるようになった時が回心なんです。心が回る。一切が、有難いことなんだ、勿体ない事なんだという頂き方が出来る。ところが、なかなか出来ない。やっぱり、辛いことは辛い、腹の立つことは腹が立つ。そこで、さきほど申します様に、私どもの心の中に、これではおかげが受けられんから、どうぞ、お向きを変えてくだされ、お向きを変えて下されと言うて、自分の心の中に、向きを変えて頂く事のお願をしなければいけない。お取次を頂かなければならない。お参りをしなければならないという事になるのだ。自分の心の中に、生神と死神が同居しておる。ああ困ったな、困ったな。腹を立てたり、困ったなを言いよる時には、もう死神が、前に出て来とる時ですから、死神が、こうこうしよる時なんです、いうならば。これでは、しかし、お互いが幸せを願うならば、これではいけんのですから、お向きを変えてくだされと言うて、お向きを変えてくだされと言うて願ううちに、日頃、頂いておる教えが、頭に、心に浮かんでくる。
汽車の中で、私が、こりゃ、行きがけに、ある事を、ちょっと、ちょっと気に病んだ、列車の中で。そしたら、善導寺の親先生が、私が差し上げとる、あの黒のベレー帽をかぶっておられますよね。あれを、これから上を頂きますもん。だから、ははぁ、親先生が頭に黒かつば乗せとりなさるから、頭で苦労をするなと仰る事ばいなと思うてから。それを頂いたら、もう、途端に、頭の黒が、さっと無くなった。本当に神様ちゃ有難い。だから、信心辛抱して身に徳を受けるとですね。もう次々と、とっさにです、自分の心が回心が出来る、次々と。だから、おかげで、何時までも、腹を立てとくことは要らん。何時までも、頭の中に置いとく事が要らん。頭で苦労はするなと、神様が。お互いが、辛抱させて頂く、という事が、どの様に大切な事か。しかもその、辛抱させて頂く、その後が、辛抱させて頂いておるという事が、有難いという。例えば、これを一つ言うておかなきゃ。こればいっちょ、言うてやらにゃ。これだけ言わにゃ、胸が治まらんという時には、もう、死神が前に出ておる時です。そういう思い方をするから、命を縮めるのです、細かく言うなら。だから、これでは、早死にの元のような事で。幸せを願っておるでしょう、長生きを願っておるなら。こう言う事じゃ長生きは出来んぞと思うてです。生神様が、前に出てこられる事を願わせて貰う。そして、辛抱させて貰う。そして、はぁおかげで、言わんで済んで良かった。ああせんで済んで良かったと思うでしょうが。その良かったというその心が、そのまま、神様へお供えになるのですよ。神様は受けて下さるのですよ。それを、心の棒と書いて辛抱という。
そこで、皆さん、甘い物も、神様のお恵みのもの。辛い物も神様のお恵みのもの。お恵みのものだから、がぶがぶ飲むぞ、がぶがぶ食べるぞという事の、それも有難い。けれども、それでは、辛抱の徳にならん。それを有難く頂く事も、有難く頂く事もおかげなんです。有難く頂く事もおかげなんだけれども、だから、有難いと思う事も、おかげなんだけれども。けれども、その甘い物も、辛い物もです、ちょっと控える。いや、甘いものを断つ。辛いものを断つ。そういう辛抱させて頂く事が、有難いと分かったらです。これは、信心辛抱の徳になる。だから、言うなら、わがまま勝手というか、飲みたい放題、したい放題の事ではいけないという事が分かるでしょうが。そこに、身を慎めと、慎ませて頂く。慎ませて頂くという事が有難い。その有難いというものが、辛抱に伴うところにです、神様が、それを辛抱として受けて下さる。辛抱の徳が、そこから受けられる。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃという、お互い、辛抱はです、一日の内に、どれ程出来るか分からんのです。その、心掛けておったら。神信心には、辛抱する事が一番大切でございますと仰る。神信心には、辛抱する事が一番大切でございます。信心辛抱さえしておれば、物ごと、整わん事もないという。これは、人間が幸せを願うために、幸せを願うならば、そういう事にならなければならない。日々、一つ一つ、自分の心の中に、こういう、例えば、心の状態では、今日、私は、そこんところを、生神と死神とこう言う。一つこちらには生神がござり、一つこちらには死神がござる。だからですね、おおよそ、こういう事では、おかげの受けられないという心が、前に出てきたならば、そん時こそ、神様、お向きを変えてくだされ、お向きを変えてくだされと言うて、お願をさせて貰うと、生神様の方が前に出る。信心辛抱して、その後に、はぁ辛抱して良かったという時には、生神様が前に出てござる時である。これが幸せなんだ。
御理解二十九節、二十九節という、二十九でも、やっぱり、さっきの話をした時に、にくといや憎い。けど、ふくといや福なんだ。そういう受け方が、もう、全ての事に、出来れるおかげを頂かせて貰わにゃ。ためにと、こう受けなければならん。それには、お互いが、信心辛抱し抜くかにゃいけん。信心辛抱の徳が身につくと、そこから、おかげが受けられる。そこから、自分の心が、物の見方、考え方が変わってくるお徳が受けられる。なかなか、一遍には変わらない。断片的には、お参りをする。昨日の、その大久保先生ところのご信者さんでもそうである。難儀な事、困った事とも思うておったけれども、ここで、ご理解を頂かせて頂いたら、はぁ有難い勿体ないと書いてある。有難い勿体ない事になってきた、その問題が。これが、おかげを頂く元になる。私が、それで、金光様のお書き下げの、信心辛抱のあれを、一枚差し上げました。もう、何よりのものを頂いてというて、大変喜んで帰られた。だからもう、これで行く以外にないのです、金光様のご信心は。一切を、有難い勿体ないで受けて行きなさいよ。けれども、受けられない。受けられないところを、お取次を頂く。向きを変えてくだされ、向きを変えてくだされという生き方で行くのである。自分の心の上に、そして、御理解二十九節を、例えば、読むとですね。「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」と。皆さん、ここんところを、今日、私は言うた。桜の花の信心じゃいけんという事じゃないのです。桜の花の信心よりと言うてある。桜の信心はいけんぞとは仰らない。だから、梅の花の信心は、もっと良いと言うておられる。それを、今日、私は、皆さんに聞いて貰ったんです。甘いもの食べたらいけんと言うのじゃない。辛いものを飲んじゃいけんと言うのじゃないけれど。そこをです、辛抱させて頂く事が出来るならですね。そら、梅の花の信心になる訳なんです。神様が、お与えになっとるのじゃから。派手にパーっと、飲んだり食うたり、それも有難いのだ。これが桜の花の信心。それがいけないこっじゃない。それも、有難く頂けば有難いのである。けれども、信心辛抱の徳にはならないという事。だから、桜の花の信心は、いけないと仰るのじゃない。桜の花の信心より、梅の花の信心をさせて貰う。桜の花の信心のおかげを頂いても、信心辛抱の徳を受けなければ、人間の、本当の幸せはない。いわゆる、長生きをしたいのは、桜の花の信心から、梅の花の信心をせにゃいかん。梅の花の信心は、長く、いわゆる、辛抱の苦労をしておるから、何時までも散らない。桜の花の信心は、一遍に、パーっと散ってしまう。桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は、苦労しているから、長う散らぬ。これを、ほんなら、人間の寿命に例えても良いのである。長生きをしたいなら、やはり、信心辛抱の、いわゆる、一番大切であるという、その辛抱の徳が身につかなければいけない。しかも、その信心辛抱の徳を身につけさせて頂いたら、いわゆる、そこから、肉眼をおいて、心眼を開く事が出来る。頭の中に、頭がこんがらがる様に苦労しておる。神様は、そんばに行って、頭で苦労するなと仰る。もう、仰った途端に、私の頭の中は、すっからかんに、軽くなっておる。はぁ、ほんなこつ、自分が、頭で苦労したっちゃしようないとたいと、すぐ思う事。回心が出来る。これは、徳を受けなければ出来ないのである。いわゆる、肉眼をおいて、心眼を開かなければ出来ないのである。本当言う徳は、例えば、神を頂かなくても、いわゆる、一切が、有難い勿体ないで受けられる事なんですけれどもね。その過程。そこんところをです、いわゆる、信心辛抱の徳と言うものが、どんなに有難いものなのかという事を、日々の中にも、もう、一際というところに、金光様を唱え続けさせてえ貰うて、そこをおかげ頂かせて貰う、その後に有難い。それが、私が、列車の中で頂いた、辛抱になるのである。神様が、それを受けて下さる。神様に、お供えが出来るのである。食べるとも食べる、飲むとも飲む。それが、神様から頂いとるものじゃから、お恵みのものだから有難い。なるほど有難い。けれども、それは、何処までも、桜の花の信心になるのです。けども、そこんところを、一歩、控えておる。辛抱しておる。それを、金光様、辛抱させて頂く事が有難い。何時も、腹八分、腹七分であるという事が有難い。そこに、長生きのおかげになる、辛抱の、いわゆる、長う散らんというおかげが受けられる。
今日の御理解はですね。大体は、生神と死神は、同質という事。こりゃまた、大変難しい事なんです、実を言うたら。という事を、大体頂いたんです。けども、これは、また、大変な説明が要るんですよね。いわゆる、教学が必要になってくる。けども、それは、私は、一歩手前のところで、お互いは、死神は嫌なんだ。嫌だけども、これは、同居しているのだ。それを、私は、教祖様が、天地の親神様に向かわれた時のように、向きを変えてくだされいという生き方で生かして貰わなければいけないと、という風に申しました。そして、そこに、信心辛抱という事が、如何に大事なことかということを申しましたですね。どうぞ。